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テロ事件一年後のアメリカ

――健全な愛国心が敵を見えなくする――

 

橋本努

『評論』2002.10.no.133.

 

 

九月十一日のテロ事件から一年が経とうとしている。アメリカのテレビ局各社はその一周年に向けて、有名ポップ・シンガーによる盛大なコンサートや、ニューヨークの消防士や警察官たちを称える「グランド・ゼロの英雄」特集、あるいは、テロ事件を刻銘に再現するドキュメンタリー番組などを企画しているという。こうしたマス・メディアの働きかけによって、アメリカにおける愛国感情は再び盛り上がるであろう。なるほどアメリカに暮らす人々は、これだけの事件に直面して、犠牲者たちを追悼しきれないという憤懣を抱えている。メディアを通じて生み出される国家的悲劇の再認は、そうした捉えきれない悲しみをポジティヴに処理するための、社会的な表現となりうるであろう。

しかし愛国感情を社会的に動員するという操作は一般に、現実的・暗黙的に想定される「敵」に対する排他的・抑圧的な作用をもたらす点で、大きな問題をはらんでいる。ドイツにおけるユダヤ人排斥や日本における在日韓国人の排斥などは、愛国主義と表裏一体の殺戮行為であった。だが現在、アメリカにおいて人々の愛国心が「反イスラム」行為に結びつく可能性は、相対的に少ない。敵はイスラム全般ではなく、テロリストであり、それは目に見えない敵であることから、抽象的な意味での「悪」と同一視される。それはどこにでも出現可能な、あるいは私たちの内面にも宿るような、遍在的な性格をもつとされる。人々はそうした「敵=悪」が発生する可能性を少しでも減らすべく、善き社会を求めて、「共同体主義」や「保守主義」の価値観を真摯に受け止めているようである。実際アメリカでは、社会に貢献することの美徳を称揚し、警察官や消防士といった英雄たちに誇りをもつという、自生的な道徳感情が少なからず芽生えている。

無論、そうした感情は、新たなテロ行為を防ぐには不十分である。それはたんにテロリズムの不安を解消するための、一時的な自己愛充足に終わるかもしれない。愛国心のみによって、テロリズムを克服しうるわけではない。いやむしろ、愛国心の健全な発露(例えば共同体主義的な美徳の希求)は、かえって具体的な敵を見失うことで、明確な政治的目標を欠いてしまうという危険をはらんでいる。そして明確な目標を欠いたまま政府が肥大化し、莫大な財政支出が浪費されるという、いわば政府膨張主義へと道を開いてしまうことにもなる。

例えば、現在アフガニスタンにおいてアメリカ軍が想定している敵とは、何者であろうか。二〇〇二年六月末、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍将校のダン・マクネイル氏は、「現在、私が敵対しているものに対して、私は特に名前を付けていません」と答えたという。つまりアメリカ軍は、名前のない敵と戦っている、というのが公式の表明なのである。ブッシュ大統領は二〇〇二年一月、悪の枢軸国として、イラク、イラン、北朝鮮の三国を挙げたが、二〇〇二年五月には国家事務次官のジョン・ボルトン氏が、これにキューバ、リビア、シリアを追加した。現在、テロリズム撲滅を掲げるアメリカの戦争は、テロ国家やテロリストを支援する国家に対してだけでなく、テロルを生み出すような憎悪感情をもった人々に「寛容を示す国々」に対しても向けられている。もはやテロ事件の主犯とされるビン・ラディンは象徴的な意味での敵にすぎない。テロリストのネットワークが世界中にあることを考えるならば、アメリカが世界各地で戦火を交えることも起こりえよう。まさにアメリカは、愛国心の健全な発露によって具体的な敵を絞れずに、戦線をどこまでも拡大しうるという危険な可能性に直面している。覇権国家アメリカが「悪しき人々(evil people)」や「悪の世界(evil world)」と戦うということは、実は、成熟した愛国心に民主主義の基盤をおく社会が覇権を握ることの、パラドキシカルな政治的帰結に他ならない。

 敵を明確に想定できないという点では、国内のセキュリティ対策にも同様の問題が生じている。ブッシュ大統領が打ち出した「ホームランド・セキュリティ省」の組織案では、国家予算の五%を注ぎ込み、新たに十七万人を雇用できるようになるという。こうして共和主義の名の下に政府機能が拡大されるならば、社会は細部に宿る不可視の敵に対して自らを防衛するという、強力な管理(監視)体制へと変貌していくであろう。アメリカは現在、「健全な愛国感情」をその養分としつつ、「目的なき戦争-安全機械」へと化していく危険を抱えている。

 

2002.8.28脱稿